水俣病公式確認50年に思う

 高校3年の3月。高校近くの散髪屋で散髪中にテレビで熊本地裁の水俣病原告勝訴の判決を報道しているのを見た。1973年の3月だった。
 大学に入り、公害の勉強を自分で始めた。当時、東大助手だった宇井純の「公害原論」や熊本大学医学部の原田正純の岩波新書「水俣病」を読んだ。この時に足尾鉱毒事件や田中正造の存在も知った。今では、田中正造は小学校の教科書にも載っているらしい。田中正造の生き様を知れば、現在の政治家なんて糞みたいな存在であることが分るだろう。

 今年が公式確認から50年と言うことは水俣病公式確認は1956年になるが、実際には1953年頃から患者が発生していた。最初は原因が分らず奇病と呼ばれ、遺伝も疑われた。水俣出身者は都会に出ても水俣出身者であることを隠していたようだった。水俣病患者は最初から世間に差別された。

 漁民達は最初からチッソ水俣の工場廃水が原因ではないかと感じていた。何故なら、水俣湾で獲れた魚を食べた猫達が最初に狂い死していったからである。また、チッソ水俣の工場廃水の排出口付近に係留した漁船には生物が付着しなかったからである。

 患者達はチッソ水俣の責任を追及するようになる。しかし、これは逆に水俣市住民の大半を敵に回すことになった。なぜなら水俣市民の大半は、何らかの形でチッソ水俣の恩恵を受けていたからである。他に大きな企業の無い水俣市にとってチッソ水俣の存続は市民の死活問題に絡む問題であった。患者はチッソ水俣だけでなく、水俣市民や行政も敵に回すことになった。

 この間、行政は何をしたか。チッソ水俣の工場廃水と水俣病の因果関係が明確になるまで何もしなかった。1953年の第1号患者発生から1973年の熊本地裁判決まで20年。これが西洋から導入した合理主義の結果である。何がえらそうに因果関係か。漁民は最初から何が原因かを直感で知っていたんだ。

 4月30日朝日新聞朝刊1面に「チッソ社員 有機水銀流出を予見 水俣病公式確認5年前」の記事。要するに1951年の時点で有機水銀を含んだ廃液が工場外に流出することを予見したチッソ水俣工場の社内報告書が見つかったと言うのである。これに対するチッソ常務の話は、良く分らない、有機水銀が発生することはないというのが、当時の常識だったはずだと惚けている。チッソ水俣は、いつもこうなのだ。自社に都合の悪いデータは隠す。付属病院での猫を使った発症実験で工場廃水が原因と分っても隠す。その間、患者が増え続けているのに隠す。国の責任も重いし、チッソの責任も重い。

 国は国民に愛国心を持てというが、自分に何の落ち度も無く一方的に企業と国の手落ちで病気になっても保障もしてもらえないのが実態なのである。50年経っても水俣病問題が解決していないことが、その証拠である。少数者は弱いことを国は知っているから平気で切り捨てるのである。国民は馬鹿だから少数者の問題としか考えないことを知っているから国は頭に乗っているのである。

 国民の大半は、自分に関係の無いことはどうでも良いのである。そのような考えだから自分の興味のあることにしか感心を示さないし、知識も吸収しない。人間も動物であるので、自分と違った状態や大部分と異なる状態のものには警戒心を持つ。これは当然といえば、当然だろう。皮膚の色が異なる人を見て、違和感を感じる。エイズの人が仮に近くにいたら。最近まで不当に隔離されていたハンセン病は。

 正しい知識が無ければ、対象に警戒心を持ち、俗に言う差別を行うのは仕方ないであろう。ハンセン病が伝染しやすいと考えられていた時点では隔離は正当である。エイズも感染力は肝炎ウイルスと同程度で比較的弱いと言われている。要するに不当な差別を世の中から無くすには、正しい知識を身につけるしかないのである。少数者の苦しみを共感するにも、やはり正しい知識を身につけるしかないのである。

 自分が不幸にして少数者になったときに騒いでも手遅れなのである。世間は少数者のことなどどうでも良いのである。

 自分が不当な差別者にならないように常に正しい知識・情報を入手するよう不断の努力をするのか、世間の少数者のことなど他人事として切り捨てて、自分の興味のあることだけを本能の赴くままに求めて生きるのか?


 2006年5月6日記

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